●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2021年10月
北朝鮮の牛乳
北朝鮮の最高指導者、金正恩朝鮮労働党総書記が9月29日の最高人民会議(国会)で施政演説をした。
報道各社のニュースは、米朝や南北関係に関する発言を集中的に取り上げた。
話題にならなかったが、私は「全国的な乳生産量を現在の3倍以上に増やす」という正恩氏の発言が気になった。
正恩氏は6月の会議でも「全国の子どもたちに乳製品などの栄養食品を支給する」と語っていた。正恩氏はスイスに留学したことがある。そこで覚えた高カロリーのエメンタールチーズも大好きだという。
日常的にスーパーやコンビニで牛乳やチーズが手に入る日本人にとって、どうということはない発言かもしれない。でも、北朝鮮の人々にとっては大問題だ。
そもそも、北朝鮮の庶民はいわゆる「牛乳」を知らない。知っているのは、大豆を絞った豆乳か、ヤギの乳のどちらかだ。韓国の専門家によれば、北朝鮮にも乳牛はいるが、最高指導者や党や軍の幹部たちの専用牧場で飼育されているだけで、頭数は韓国の20分の1に過ぎないという。
正恩氏は29日の演説で「ヤギと牛の数を画期的に増やす」とも語った。もしかすると、乳牛の頭数を増やすあてがあるのかもしれない。でも、牛乳を配達するためのルートはちゃんとつくれるのだろうか。日本では明治時代に牛乳販売が始まり、昭和30年代にはトラック輸送や保冷技術の発達もあり、牛乳の戸別配達が当たり前になった。
しかし、北朝鮮には解決しなければならない問題が余りにも多い。
まず、輸送網が貧弱だ。道路はコンクリート製が多く、穴が空いても土砂で埋めるだけだから、雨が降るとすぐに流出する。危なくて速度など出せない。鉄道も、60年前から100年ほど前の施設をそのまま使っている。日本統治時代よりも列車の平均速度が遅くなっているほどだ。さらに、電力が足りない。北朝鮮の総発電能力は韓国の20分の1に過ぎない。北朝鮮内の需要の2割しか満たしていないと言われる。これでは乳製品を長く保存しておけない。
そんなことを思いながら、昔知人からもらった、金正日総書記とクリントン元米大統領との夕食会(2009年8月)のメニューをみてみた。カナッペやチキンスープ、ビーフステーキなど豪華な品々が並ぶなか、最後のデザートはブルーベリーアイスクリームだった。同じデザートのなかには、スイカもあった。スイカはミカンやバナナのように「南方果実」とも呼ばれ、北朝鮮の庶民の手が届かない貴重品だ。
日本でももちろん、貧富の格差があるし、豪華なフルコースを楽しむ余裕がない人だって大勢いる。でも、牛乳や果物くらいなら、手に入らないということはない。
ここまで貧富の差が開いた責任を、金正恩氏はきちんと取れるのだろうか。
(朝日新聞社 牧野愛博)