●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2016年4月 アルファ碁と李セドル9段
3月、自宅近くの喫茶店に息子を連れて行った。小さな店で、客は私たち以外に若い男女4人連れがいただけ。静かな店内で、息子にコーラを飲ませていると、彼らの会話が耳に流れ込んできた。また、あの話題だ。
3月半ば、韓国の人たちの話題を独占したのは、北朝鮮の核開発でも、4月13日に迫った韓国総選挙でもなかった。人工知能のアルファ碁と韓国の李セドル9段との対局だった。私が4人連れの会話を聞いた時は、すでにアルファ碁が5番勝負で3連勝していた。4人のなかの1人が熱心に、「なぜアルファ碁が強いのか」という点を仲間に解説していた。同じような会話は、居酒屋でも食堂でも聞いた。みんな、この世紀の対決に夢中になっていた。
事前の予想は李9段の5戦全勝だった。人工知能は既にチェスと将棋で人間を下していたが、指し手が天文学的に多い囲碁では、しばらく人間には勝てないだろうと言われていた。いかに高速のコンピューターでも、すべての指し手を計算して「最も良い手」を選び出す作業に時間がかかるからだ。
ところが、英国のグーグル・ディープマインド社が開発したアルファ碁は、入力した100万にも及ぶ棋譜を使って、3千万回以上自己学習して強くなった。指し手のなかで、「無駄な手」を、学習で得た経験則からあらかじめ省き、「良さそうだと思った手」を対象に計算して、最善の手を探し出すという。
予想外に強いアルファ碁の実力に、韓国の人々は驚いた。ただ、韓国では囲碁が盛んとはいえ、なぜ韓国の人がこの対局に興味を持ったのか。自分なりに感じたのが、李9段の人間的な魅力だった。
李9段は5人兄弟。父親が囲碁好きで、農作業に出る前に、子供たちに囲碁の指し手の問題を出し、帰ってくるまで検討させたという。李9段は、独創的な棋風で知られ、「韓国棋界の魔王」とも呼ばれた。
私も囲碁はわからないが、対局後に行われる記者会見がとても楽しみだった。対局期間中は、李9段に配慮して、李9段とディープマインド社の担当者が冒頭に話す以外、質問は3つまでと決められていた。少ないやり取りの中で、李9段は実に当意即妙な発言を続けた。
白眉だったのは、3連敗した後の会見だった。彼は「今日の敗北は李セドルの敗北であり、人間の敗北ではない」と語った。敗北が決まったばかりで、落ち込んだり、腹が立ったりするのが当然のなか、こういう発言はなかなか出来ない。
韓国の人たちは、この李9段の人間性に感動し、第4局でついに李9段が一矢を報いたときは、我が事のように喜んだ。科学がどんなに発展しても、最後はやはり人間が主役だということを、改めて感じた今回の取材だった。
(朝日新聞社 牧野愛博)