●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2021年9月
韓国に残った日本女性
8月、一通のはがきを受け取った。戦後、様々な事情で韓国に残留した日本女性を助けてきた熊田和子さんの家族からだった。熊田さんは7月、都内足立区の自宅で亡くなった。90歳だった。
朝鮮半島に残された日本女性は、確認できただけで2700人とも2800人とも言われる。熊田さんは1965年の日韓国交正常化より前から60年以上、こうした女性たちを励まし続けてきた方だった。
熊田さんが韓国人男性との結婚のため、ソウルに到着したのが1959年。当時は李承晩政権の末期だった。李政権は戦後、日本人を追放し、入国も許さなかった。熊田さんも飛行場に到着するやいなや、警察に連行されて尋問を受けたという。熊田さんはソウル到着の3日後、結婚式を挙げ、そのまま韓国籍を取得した。
熊田さんはその後、ソウルの明洞大聖堂で行われていた日本語聖書研究会に参加した。研究会では韓国に残留した日本女性への支援を行っていた。それが縁になり、熊田さんはこうした女性たちの支援に携わった。
上坂冬子さんの「慶州ナザレ園」でも紹介されているが、私が取材した範囲でも韓国に取り残された女性たちの苦労は大変なものだったようだ。戦時中、「内鮮一体政策」のもと、日本に留学や働きに来ていた朝鮮人たちと結婚した女性が多かった。朝鮮半島に渡った後、夫に本妻がいたり、籍をきちんと入れてもらえなかったりした人が大勢いた。戦後、李承晩政権が反日教育に力を入れたこともあり、彼女たちの生活は困窮を極めたという。
町田貢元駐韓大使によれば、わずかな着替えだけを持って開設されたばかりの釜山総領事館に「日本に帰りたい」と訴えてやってきた日本女性がいた。病院に連れて行くと重度の結核を患っていた。日本に帰れるように政府と談判したが、「韓国籍を取得しているので、支援できない」と断られた。町田さんたちは、ポケットマネーをいくらか渡して元気づけようとしたが、女性はこのお金で購入した睡眠薬を使って自殺してしまったという。町田さんは今でも、この話を思い出すと涙が止まらないと語っていた。このほかにも、日本人と悟られないように言葉が話せないふりをした女性、寒村に逃れて日雇い労働で糊口をしのいだ女性、バラックのような住居で夜露をしのいだ女性など、辛酸をなめつくした方が多かったという。
熊田さんは、こうした方々への支援活動に奔走する傍ら、永住帰国や一時帰国活動にも取り組んだ。永住帰国した女性は1200人余に上るという。韓国籍や無国籍の女性は永住帰国が難しかった。熊田さんは日本の戸籍があった自治体や政府に連絡を取り、奔走したという。ただ、一時帰国では実家に帰りたがらない方も多かった。親はともかく、兄弟や親族は受け入れに消極的な方が少なくなかったそうだ。
今、日本政府が把握している韓国残留日本女性はわずか10人を残すだけになった。もう終戦から76年になるが、この方たちの戦後はまだ続いている。この方たちを60年にわたって支えた熊田さんの功績を今一度、たたえたいと思った。
(朝日新聞社 牧野愛博)