●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2024年7月
沖縄戦
6月23日は沖縄「慰霊の日」だった。1945年のこの日、日本軍の組織的戦闘が終わったとされる。
米軍は4月1日に沖縄本島への上陸を開始し、2カ月余にわたる戦闘で20万人以上が亡くなった。
沖縄で多数の犠牲者を出した原因として指摘されているのが、守備隊だった日本陸軍第32軍の「南部撤退」だ。米軍は沖縄本島中部の読谷・北谷方面に上陸した。第32軍は首里城の地下に司令部を構え、南下してくる米軍と戦った。当初は高台になっている嘉数・前田の両高地などを防衛線にして、眼下に迫ってくる米戦車などを上から攻撃して防いだ。それでも、5月半ばまでにこれらの防衛線は突破された。
米軍が首里に迫っていた5月22日、第32軍が決めたのが「南部撤退」だった。当時の記録などによれば、第32軍内部でも「首里で米軍と決戦し、玉砕しよう」という意見があったが、第32軍の八原博通高級参謀が、「最後の抗戦を試みるのが軍の根本目的に照らし妥当である」として、さらに南にある喜屋武半島へ後退して新たな防御線を張るように主張した。これに、牛島満司令官も同意し、第32軍は首里を捨てて南部・喜屋武半島にある摩文仁まで下がった。
当時、多くの住民が首里より南側に避難していた。そこに第32軍が後退してきたことで、混乱が生まれ、大勢の方が亡くなった。中には隠れていた自然壕から出るよう、日本軍兵士に脅された住民もいた。結局、沖縄戦の戦没者の半数以上が南部撤退以降に発生した。牛島司令官らの判断を巡っては、現在の自衛隊が戦史研究をする際も様々な意見が出るという。「住民を巻き添えにするような判断はすべきではなかった」という意見もある。一方、「本土決戦を一日でも遅らせるための苦渋の決断だった」という声も出る。いずれにしても、沖縄の人々が「沖縄は本土の捨て石にされた」と怒るのは当然のことだろう。
当時の悲劇を繰り返さないよう、努力することが、現代に生きる私たちの務めだと思う。悲劇を生んだ原因の一つは、「南部撤退」を決めた第32軍の判断にある。今でも、沖縄では牛島司令官ら第32軍首脳部への怒りや恨みが消えていない。毎年、牛島司令官が自決したとされる6月23日未明になると、かつては自衛官らが慰霊に訪れていたが、メディアが激しく非難し、最近はその姿も見られなくなっている。
では、「沖縄の自衛隊に牛島司令官のような人がいなくなれば、悲劇は繰り返されない」と言えるだろうか。それだけでは足りないはずだ。
沖縄戦の前、日本政府は閣議決定で島外への10万人規模の疎開を計画したが、疎開先での生活不安や海上交通の混乱などから、十分な成果を上げられなかった。同じように沖縄本島北部への避難も十分できなかった。天皇側近の木戸幸一は、嘉数・前田両高地の防衛線が突破された段階で、戦況を打開できる見込みがなくなったと考え、天皇に終戦工作を始めて良いかどうか上奏している。そのくらい、日本政府や大本営に「戦争をいつやめるか」というビジョンがなかった。
牛島司令官を非難するだけでは、沖縄戦で亡くなった大勢の方を本当に慰霊することにはならないだろう。今度は「米国のために日本が捨て石にされる」という事態も生まれるかもしれない。私たちには他にもやるべきことがあるはずだ。
朝日新聞社 牧野愛博(よしひろ)