●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2023年4月
パラオ
3月、出張で西太平洋のパラオに出かけた。2018年以降、直行便がないので、台湾経由で訪れた。人口はわずか2万2千人程度。パラオは米国との間で自由連合盟約を結んでいる。米国はパラオの軍事・外交に関する権利を独占する代わり、パラオに様々な経済支援を行っている。パラオの人々は労働ビザなしで、米国で働ける。そのため、賃金が高い米国領のサイパンやグアムなどに移住する人が相次いでいる。今、パラオ諸島に残る人々は1万8千人余りだといわれる。
この国は世界遺産「ロック・アイランド」で知られるように、ダイビングのメッカだ。パラオで働く人々の半分は公務員、残りの半分はホテルやレストランなど、観光産業に従事する人々だという。新型コロナウイルスの感染拡大でホテルやレストランの閉鎖が続いたが、今年1月からノーマスク宣言が出され、ようやく生活が平常に戻りつつあるという。
パラオの中心部・コロールは、本当に小さな街だった。距離2キロほどのメインストリートを中心に、政府の建物や学校、ホテルなどがこぢんまり立ち並んでいた。高校は4つしかないという。タクシーや信号機はない。信号機は一度設置されたが、トラックやバスが信号機と度々接触し、壊してしまってから、使われなくなったという。経由地の台北の空港で、パラオの資料を読んでいたら、タクシーがないことに初めて気づいた。慌ててホテルに電話して、迎えにきてもらった。
小さな街に目につくのが、日本の残り香だった。パラオ最高裁判所庁舎は、旧南洋庁パラオ支庁庁舎。パラオ国会議事堂は、旧パラオ無線電信所庁舎だ。パラオの外相のお名前は「アイタロウ」と言う。てっきり日系人だと思ってお目にかかったら、純粋のパラオ人だった。そのほかも「オカダ」「シロー」という名前の方々にお目にかかったが、やはり「親戚に日本人はいない」と言われた。「日本の名前をつけるのが一つの流行なんです」という。
日本は第1次世界大戦当時の1914年、ドイツからパラオを奪った。1919 年のベルサイユ条約で、パラオなどが国際連盟による日本の委任統治領になった。日本は1933年、南洋群島の統治機関として、コロールに南洋庁を開設した。学校や郵便局などをつくり、衛生や教育分野などで施策を推進した。日本は第2次世界大戦で敗北するまでの31年間、パラオを統治し、一時は6千人以上の日本人が住んだ。
パラオではペリリュー島の戦いなどで、日本の戦死・戦病死者は約1万5千人にのぼった。ただ、パラオ人はペリリュー島から疎開したこともあり、100~200人の死者にとどまったという。民間の犠牲を少なくできたことが、その後のパラオの人々の親日感情につながったと言える。日本の安全保障は今、大きな危機を迎えている。民間の人々を大切にすることの重要性をパラオの人々は教えてくれる。
(朝日新聞社 牧野愛博)