●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2024年10月
玉砕の島
8月、北マリアナ諸島・サイパン島とテニアン島に取材に出かけた。米軍は1944年6月から8月にかけ、日本が支配していた両島などに侵攻した。この戦いで、両島合わせ、日本軍は総兵力約5万3千人のうち4万9千人余が戦死し、民間人約3万6千人のうち1万1千人~1万3千人が死亡した。私は時々、戦跡地を訪れる。安全保障の記事を書くことへの「怖れ」があるからだ。ウクライナや中東、台湾、朝鮮半島などの軍事・外交を巡る記事を書く際、紛争の死傷者や兵器の性能などに触れることもよくある。しかし、自分が戦場でその記事を書いているわけではない。死傷者1人1人の苦痛や恐怖、兵器がもたらす災禍に十分理解が追い付いていない。すでに戦場ではなくなった場所とはいえ、そこで人々が何を体験したのかを想像することは大切なことだと考えている。
サイパン。米軍上陸の前から、負傷者が病院の施設に入りきらず、近くの公園に天幕を張って収容されていたという。増援部隊として送られてくる日本軍兵士を乗せた輸送船が、米軍潜水艦の攻撃をしばしば受けたからだ。米軍が上陸してからは、野戦病院は場所を転々とする。そのうちの一つは、ジャングルの中にあった。崖の下が浅い洞窟のようになり、米軍の砲爆撃をいくらかでもしのげるというだけの場所だった。ジャングルの中に分け入るだけで汗がにじむ。野戦病院といっても、負傷者はただ地面に寝かされ、薬や包帯もほとんどないような状態だったという。少しでも元気な人が交代で水筒を七つも八つも両肩にかけ、30分ほどかけて沢の水を汲みに出かけたそうだ。その野戦病院にも米軍が迫り、移動することになった。歩けない患者には自決用の手榴弾が配られた。みな、決心がつかず「連れて行ってほしい」と頼む患者も大勢いたという。看護兵の一人が残り、患者たちに「皆さん、準備はできましたか。私が最初に参りますから、皆さんも後に続いてください」と語り、自決した。その後、次々に起きる爆発の音を聞きながら、負傷兵や民間人らが次の場所に移動したという。
サインパン島北端には「バンザイ・クリフ」と「スーサイド(自殺)・クリフ」がある。そこで、追い詰められた人々は崖から飛び降りて自決した。生き残った人々の証言によれば、飛び降りる際に人々が発した言葉で一番多かったのは「お母さん」だったという。
テニアン島にもやはり、「スーサイド・クリフ」が残されている。人々はサイパン島とは逆に、北から南に追い詰められた。追い詰められる途中、日本軍がこもった洞窟には、米軍が使った火炎放射器による焼け焦げた跡が残っていた。
米軍は両島とグアムを占領後、第21爆撃集団を編成し、3島にB29爆撃機200機以上を配備した。当初は高高度から日本本土の軍事施設への精密爆撃を行ったが、サイパンと日本本土の中間地点の硫黄島が45年2月に陥落した後、方針を変えて低高度からの夜間焼夷弾爆撃に切り替えた。同年5月には、原子爆弾投下を任務とする14機のB29からなる第509混成飛行群がテニアンに進出し、8月に広島、長崎へ原爆を投下した。
米軍は今、テニアン島の空港施設を新たに改修している。中国の弾道ミサイルに備え、できるだけ、この地域の空軍拠点を分散化する思惑がある。歴史は繰り返す。だが、80年前、人々が味わった塗炭の苦しみを繰り返してはならない。
朝日新聞社 牧野愛博(よしひろ)