●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2024年4月
インドネシアに残った人々
3月、インドネシアを訪れた。第2次世界大戦中、インドネシアなど東南アジア地域で日本軍の軍属として捕虜収容所の監視員をしていた朝鮮半島出身者らについての取材だった。
1942年秋、朝鮮・韓国人軍属3016人がインドネシアやベトナムなど東南アジア各地に上陸した。開戦当初、日本軍は破竹の勢いで進撃した。米国、英国、豪州、オランダなど各軍の捕虜の数は10万人を超えた。予想外の大規模な捕虜の発生に慌てた日本軍は、収容所を監視する要員として朝鮮半島や台湾出身者を充てた。
どの国の軍隊も「異分子」には冷たく対応する。米軍の場合、黒人や日系人らは激戦地の前線に送られた。日本軍の場合、「銃器を扱う前線に送れば、逆に反乱を起こされる可能性がある」と考え、朝鮮・韓国人や台湾人らを後方の捕虜収容所の監視員として使うことを決めたという。彼らの一部は戦後、BC級戦犯に問われた。戦犯有罪者4403人のうち、朝鮮・韓国人が148人、台湾人が173人を占める。朝鮮・韓国人戦犯者のうち、捕虜収容所監視員は129人にのぼる。戦犯法廷では、戦争犯罪の被害者とされた英米などの軍人たちの証言が決め手になった。常に捕虜たちと顔を合わせていた朝鮮・韓国人や台湾人の監視員は、やり玉にあがりやすかった。
一方、インドネシアには戦後、旧宗主国のオランダ軍が再び進駐した。インドネシア人は抵抗し、1945年から49年にかけて独立戦争が起きた。終戦で武装解除された日本軍から、この独立戦争に身を投じる人が出た。独立戦争に参加した元日本軍兵士らは約900人と言われ、うち約600人が死亡した。
ジャカルタ市内には、独立戦争に身を投じた旧日本兵らが作った「福祉友の会」の事務所と小さな展示館がある。1979年、旧日本兵107人が呼びかけ人になって友の会が発足した。会員は230人を数えた。今は全員が世を去り、2世や3世らが会を運営している。展示館には、旧日本兵らの顔写真60枚が掲げられているほか、「福祉友の会」を訪問した自衛隊関係らとの記念写真も飾ってあった。独立戦争を戦った旧日本兵のうち、一部はカリバタ英雄墓地に埋葬されている。会員には日本人のほか、台湾人もいたが、朝鮮・韓国人はいなかったという。関係者にその理由を聞いたが、「よくわからない」という話だった。
「福祉友の会」の会員だった台湾出身の故宮原永治さんはテレビの取材で、台湾に戻らずに独立戦争に参加した理由について「日本軍兵士として国民党と戦った自分が、国民党が支配する台湾には戻れない」と証言していたという。
一方、ジャカルタの在インドネシア韓人会に尋ねたが、独立戦争に参加した朝鮮・韓国人として確認されているのは、捕虜監視員1人、文官1人の計2人だけだという。日本人と異なり、わからない理由について、関係者は「日本軍に協力した親日派として批判されることを恐れたのだろう」と話す。
BC級戦犯で有期刑を受けた朝鮮・韓国人や台湾人らは1952年に発効したサンフランシスコ講和条約で、日本国籍を喪失した。当時、戦犯法廷で有期刑を受けていた人々の大部分が、刑が満了した後も、朝鮮半島に戻る道を選ばなかった。1世はすでに全員亡くなり、今はその遺族たちが東京都などに住んでいる。
朝日新聞社 牧野愛博(よしひろ)