●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2020年3月
ウイルスが暴いた個人の不都合な秘密
2月初めにソウルを訪れた。この時点で、すでに新型コロナウイルスによる感染の話題で持ちきりだった。街を歩く人の8割はマスク姿。ホテルもレストランも従業員はみなマスクを着けていた。なじみのレストランの店主は「もう、どの店に行ってもマスクを売っていないんだよ」とぼやいていた。
ここで少し驚いたのが、感染者の行動経路についての扱いだった。知り合いの韓国人記者によれば、感染者がどんな場所に行ったのか、政府に問い合わせればすべて教えてもらえるのだという。記者は「政府は全部公開しますよ。教えなければ、国民が怒りますからね」と話す。
なかには、どこで何をしていたのか、言いたくない人もいるという。でも、韓国で自分の行動を隠そうとすることはほとんど不可能だ。携帯とクレジットカードと監視防犯カメラ(CCTV)があれば、すぐにわかってしまう。
韓国は有名なカード社会だ。ガム一つ買うのもカードを使う。私がソウルに駐在しているとき、通信システム施設の火災で、多くのお店でカードが使えなくなった。このとき、あちこちの食堂やカフェで「カード不可」という貼り紙が出され、行き場を失った市民が続出するという事態があった。カードの使用記録をたどれば、どの店に行ったのかがすぐにわかる。韓国では、「会社や家族に知られたくない店を利用するときは、現金払いで」という笑えない冗談もあるくらいだ。
監視防犯カメラもあちこちに張り巡らされている。韓国は北朝鮮と停戦状態にある準戦時国家だ。カメラは元々、スパイを防ぐ目的もあったため、韓国のそこここにカメラが設置されている。かつて、韓国に逃亡した日本の犯罪者がいたが、韓国警察はカードの利用記録とカメラで所在を割り出したことがあった。
携帯の威力もすごい。GPS機能を利用することもできるし、利用者が移動するごとに、携帯が受信する電波の基地局が入れ替わる。この記録を見れば、大体、どんな移動経路をたどったのかもわかる。
このため、新型コロナウイルスに感染したばかりに、家族にも言えないような「不都合な過去」を明かされてしまった人もいたという。
私は、何人かの韓国の知人に「個人の秘密と公の利益」について尋ねてみた。すると皆一様に、「非常事態だ。こんなときに、個人の秘密など言っている場合じゃないだろう」と答えた。私が「やり過ぎじゃないのか、という意見はないの」と聞いてみても、「良いことだとは思わないが、やむをえない」と即答していた。
元々、韓国は男性のほとんどが軍隊生活を送らなければならないし、集団や国家の利益という意識が高い面がある。それにしても、ここまではっきりと意見がまとまるのは、日本では見られない現象なのではないか。そんなことを思いながら、日本に戻ってきた。
でも、その後、日本でも徐々に新型コロナウイルスの感染が広がっている。日本でもマスクをする人の数が多くなっているし、公衆の面前で咳やくしゃみをするのがはばかられる雰囲気が広がっている。韓国のやり方に同調する意見も増えそうだ。やはり、人々の意識というものは環境に応じて変わるものらしい。
(朝日新聞社 牧野愛博)