●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2025年2月
戒厳令が悪者なのか
先月に続いて、韓国の戒厳令について、少し考えたことを書きたい。テレビでこの問題について解説したとき、コメンテーターの方から「そもそも、なぜ戒厳令の規定など残しておくのですか」というご指摘を頂いた。また、私が韓国で過去に布告された戒厳令について、インタビューの相手に「なぜ過去の場合は戒厳令が成功したのか」という質問をしたことに、「戒厳令を肯定するのか」と文句を言ってきた人もいた。誤解を恐れずにいえば、こうした人々は戒厳令そのものを悪魔視し、問題の本質を理解していないと思う。
なぜ、韓国が憲法77条に戒厳令の規定を残しているのか。条文にある通り、戦争や重大事態など、警察力で治安が維持できなくなる場合を想定しているからだ。韓国は依然、北朝鮮と休戦状態にある準戦時国家だ。警察力だけでは足りず、軍事力を動員する必要に迫られる事態があるかもしれない。そのとき、何も規定がなければ、超法規的措置になり、むしろ権力の暴走を許してしまいかねない。だから、戒厳令の条文を残している。要するに、戒厳令が悪いのではなく、戒厳令を使う人の問題なのだ。今回、戒厳令を布告した尹錫悦大統領は厳しい批判を浴びた。昨年12月3日当時の韓国・ソウルが、「軍事力を動員しなければ治安が維持できない状態」とはとても思えなかったからだ。
一方、前回の戒厳令、1979年10月に朴正煕大統領が暗殺された当時の韓国はどうだったか。朴大統領暗殺の10日ほど前に、南東部の釜山と馬山で数千人規模の大規模なデモが発生していた(釜馬民主抗争)。暴動に近い騒ぎで、朴大統領の暗殺によってさらに状況が混迷化する可能性が高かった。人々の生活を制限する戒厳令は、決して望ましい措置とは言えないが、当時の状況から、やむを得ないという空気も韓国内にあったという。日韓国交正常化当時から、断続的に韓国に勤務した町田貢元駐韓日本公使も、当時の戒厳令について「社会が混乱して警察が抑え込めなくなると、大通りや駅に戦車と兵士が配置された。そうすると人々は緊張して静かになる。社会が落ち着くにつれ、戦車と兵士の数が減っていき、やがて戒厳令が解除された」と話す。戒厳令など、ない方が良いに決まっているが、だからと言って、戒厳令を悪魔視しては問題の本質を見誤る。
日本でも1960年6月、日米安保条約改定を巡る混乱の際、当時の岸信介首相が陸上自衛隊に治安出動を要請した。当時は、政権内に反対の声が上がり、治安出動は実現しないまま、安保条約は自動改定され、岸首相は責任を取って辞任した。自衛隊は治安出動したからといって、韓国の戒厳軍のように行政機関をすべて統括するわけではないが、戦後日本でもこうした歴史があったことは覚えておくべきだ。当時の政治・社会状況を見た場合、自衛隊の治安出動が実現しなかったことは、大変幸いなことだったとも思う。
また、1月20日に就任したトランプ米大統領はメキシコとの国境地帯に非常事態を宣言した。軍隊を派遣し、不法移民の取り締まりや追放に全力を挙げるという。果たして、今の状況は軍隊を投入するほどの事態なのかどうか。米国内でも批判の声が出ているが、さすがに韓国のように、トランプ氏を内乱罪で刑事告発しようという動きまではないようだ。時代や国情、指導者によって、判断は様々ということなのだろう。
朝日新聞社 牧野愛博(よしひろ)